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小学生の頃の夢は「冒険家」
1976年4月7日、静岡県静岡市に生まれました。
農家の長男、おばあちゃん子で好奇心旺盛。
とにかく目立つことが大好きだったこともあり、小学生の頃の夢は「冒険家」でした。
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負けず嫌いだった小学生時代
マラソン大会では、日頃から練習をしない新美学が自分にはあったため、上位を獲得できることに優越感がありました。しかし、マラソン大会で1番拍手をもらい盛り上がるのは、1位の自分ではなく最後のランナーでした。練習をしなくても1位を獲れる自分ではなく、運動が苦手なクラスメートが拍手喝采を浴びる様子に強く嫉妬した記憶があります。スポーツが好き、集団をまとめる事が得意だった事もあり、各クラスに野球チームを結成し、近くの広場で試合をすることもありました。当時は各クラスの先生が応援に来てくれることも嬉しくて、とても楽しかった思い出の一つです。もう一つは、担任の先生の結婚式で指揮者という大役を任されたこと。周囲から期待されて任された大役に浮かれていた自分でしたが、後からクラスで1番音痴だったため指揮者に推薦されたと知り、ひどく落ち込んだ事もありましたが、今ではどれもが良い思い出の一つになっています。
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遊びに学びに没頭した中学校時代
小学校を卒業し、地元の公立中学校へ入学。
スポーツが好きなことは変わらず、休み時間にはクラスメートと協力してラグビー・野球・卓球・ボクシング等を楽しんでいました。必要な道具は全て手作り、時間や手間はかかりましたが、気の合う仲間と試行錯誤しながら作る時間は今でも大切な思い出になっています。また、目立つことが好きな自分も変わらず、静岡県代表としてクイズ番組出演のために名古屋まで行ったこともありました。一番の親友と張り切って出演したものの、何もできない自分の小ささを痛感しガッカリしたこともありました。
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今の仕事へのきっかけ
仲間と過ごす時間も貴重な体験でしたが、この時期は自分にとって転機になる出来事がありました。それは中学2年生の時のボランティア活動。行った先の特別養護老人ホームで一人のおばあさんを担当することになり、車椅子を押しながら散歩へ行くお手伝いをしました。その日は楽しく会話をしながら、他のボランティアさんと変わらない時間を過ごしましたが、後日お手伝いをしたおばあさんが運動会に来てくれ、お礼にと、お菓子をいただきました。学校の規則でお菓子をいただくことはできなかったのですが、ボランティア活動で過ごした、たった半日の時間が、おばあさんの心を動かし、このような想いを運んでくれたのかと感動しました。同時に自分の心も動かされたことが、今となってはこの世界で働くルーツだったのかもしれません。
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バンドを結成!!
高校に入ると仲間と一緒にバンドを結成し、私はバンドボーカルをやっていました。小学生の頃は音痴で指揮者を任される程でしたが、当時好きになった歌手 徳永英明さんの影響もあり、音痴は克服できました(笑)。ちなみに今でも徳永英明さんの曲は大好きで聴いています。
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冒険家から介護の世界へ
将来については、何をしたらよいのか?何になりたいのか?いつも自問自答していました。夢だった「冒険家」に対しても、衛星ひまわりでどこでも見れることがわかると冒険する必要もないか…と思い、考えた結果、世界をめぐり写真を撮って人々にメッセージを伝えるジャーナリストを目指そうとしました。しかし、「そんな夢みたいなこと言わないで。これからは福祉の仕事が活躍できる。だから福祉の仕事を目指しなさい。」と嫌がる私の足にしがみつき懇願してきた母に往復切符と昼食代を渡され、神奈川県のYMCA健康福祉専門学校を渋々受験する事となりました。
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介護の世界への導き
投げやりな気持ちで受験したため、面接態度も悪く筆記試験の点数も良くなったと断言できます。結果は合格…。なぜ??そう思っていた時、専門学校の先生に言われた言葉がありました。「あなたに懸けてみた。だからしっかりと勉強して学生生活を送りなさい
面接の時に趣味は山芋堀りだと、ふざけた事を言った自分のどこを見て、あなたに懸けてみたなんて言えるのだろう?なぜ自分だったのか、少し混乱しましたが、最終的に祖父の凄さを熱く語ったことが好印象だったのだろうと結論付けて終わった。じいちゃん、ありがとう!
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初めての選択
入校後は介護科と福祉科のどちらかを選択できると聞き、当時は高齢者の入れ歯や汚いことはやりたくないと思っていたため、迷わず福祉科を選びました。今は摘便(肛門から指を入れ、便を摘出する医療行為)も抵抗なく行えていますが(笑)
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介護の仕事のスタート
専門学校卒業後、特に何も決まっていなかった私は友人の勧めもあり、介護老人保健施設に入社しました。入社面接の時に希望職種は生活相談員と伝えていたのですが、まずは介護職員からだと言われ、希望職種とは全く違う、介護現場からのスタートとなりました。相談業務を始める時に、まずは介護現場スタートといいながら戻れないことは介護業界ではよくある事なのですが、その時の私は何も知らなかったので反抗心もありました。しかし今では、この現場の経験が活きており、経験なくして現場で奮闘するスタッフに言霊をのせて伝えることなど出来ないので、むしろ良かったのだと思っています。
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師匠との出会い
入社をして間もなく、当時の施設事務長(のちに私の師匠となる方)にイベント委員長を任されました。当時20歳であった私に対し、事あるごとに “plan do see” だと言い聞かされ、100万円近い予算を使い、イベントを開催しました。若い自分には荷が重く、多くの不安もありましたが、幼い頃から人をまとめる事や遊びを考えることが得意であった私には楽しみな時間でした。
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看護師への道へ
そんなある日、当時の理事長から看護師にならないか?と言われた事がきっかけで看護学校に通うことになります。役割が変わり生命の重さを感じることで仕事に対する意識が高まりました。この頃から、介護の常識が非常識という思いが強くなり、もっとこうすれば、ああすればと考える日々。
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施設の立ち上げ
29歳のある日、師匠から有料老人ホーム等の立ち上げをやらないか?と誘われました。二つ返事で誘いを受け、転職し、株式会社の社長と仕事をさせて頂き、民間会社の考え方を学びつつ、新しい施設創りに携わらせて頂きました。看介護部長という役職でありながら営業にも出させて頂き、静岡周辺だけでなく、東京・神奈川等の施設や包括支援センター・居宅支援事業所を見ることで、さらに介護・医療・福祉の世界を知ることになります。
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介護とは何か?
福祉の世界をもっと知ってみたいという好奇心や施設系の経験が長い私にとって介護の原点は在宅にあるのでは?と疑問を抱き、施設を探さなければならない時、本当に相談にのってもらえる所が静岡にはない・・・そんな数々の思いから株式会社を設立しました。
「はなうた」の由来は、介護とは何か?を考えたとき、ふと思い出した光景にあります
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はなうたとの出会い
経験の浅い介護スタッフが認知症のおばあちゃんと散歩に出かけた際、決してコミニケーション能力が高いわけではないスタッフが特に何を話すわけではなく、天気のいい日に、いい風が吹いていて、2人ベンチに座っていると、突然少し笑みを浮かべながら「はなうた」を歌いだしたのです。その時、介護とはコミニケーション技術や何かをしてあげなくては・・とかではなく自然と豊かさを引き出せる事なんじゃないかと・・・
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じいちゃん・ばあちゃん・そして母の想いを繋いで
この世界にある常識や非常識、利用する方にとって不便なシステム等々・・・
1人でできることは、たかが知れている。だが1人1人が、又は各事業所が職種や役割の垣根を超えてネットワークを結べば、各事業所や働く人たち・福祉に興味を持つ人たちにとって、豊かさを共有することができます。明るい未来に向け、「はなうた」は進み続けます。